新潟港からのフェリーで、2021年7月9日出発、7月25日帰着で、北海道旅行に出かけました。
コロナワクチンは早々に接種済みですし、感染状況も落ち着いて来て、北海道に指定されていた「まん延防止等重点措置区域」は7月11日に解除されました。
走行は例の如く高速道路は使わず、全て下道の旅です、走行距離は 5,196km、所要ガソリン量は 244.27L でした。
<2021年7月10日 - 24日 全ルート>
<2021年7月10日>
小樽港 - 苫前町 - 名寄市「道の駅なよろ」
== 2021.07.10 北海道江別市江別太 (えべつぶと) 越後神社 (えちごじんじゃ)
Echigo Shrine in Ebetsu City, Hokkaido Pref.
明治の北海道開拓が始まった時代、幌向原野の一角を占める江別太 (えべつぶと) 開拓の草分けとなったのは、現在の新潟県長岡市に設立された北海道開拓組織である 「北越殖民社」 でした。この北越殖民社が 明治19年 (1886年)に、江別太に試験入植させて出来たのが 「越後村」でした。その 「越後村」 の開村10年目にあたる明治28年 (1895年) 5月に、新潟県にある彌彦神社の分霊を受けて創建された神社が 「越後神社」 です。同年10月には、境内に開村記念碑が建てられています。
== 2021.07.10 北海道月形町 篠津山囚人墓地 (しのつやましゅうじんぼち)
Shinotsuyama Prisoner's Cemetery in Tsukigata Town, Hokkaido Pref.
明治維新後の多くの動乱 (佐賀の乱、西南の役など) で多数の国事犯が出たため、明治新政府は、当時未開の地であった 「北海道」 を流刑地として囚人を送り込む計画を立て、明治14年 (1881年) に全国で3番目の集治監である 「樺戸集治監」 を、現在の月形町に作りました。
篠津山囚人墓地には、樺戸集治監の明治14年の開監から大正8年の廃監までの39年間に獄死した 1,046名 のうち、引き取り手が無かった 1,022名 の無縁仏が眠っています。
現在の綺麗な状態は、1981年度から3年間で整備されました。
== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 岩村農場開基百年記念碑
100 Years Monument of Iwamura Farm
岩村農場は、岩村八作に依って、明治26年 (1893年) 2月に晩生内 (おそきない) に開かれ、翌年の2月に入植が開始されました。岩村八作は、北海道庁の初代長官となった 「岩村通俊」 の長男です。広さは 512,400坪 ありました。
== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 北越殖民社農場開基百年記念碑
100 Years Monument of Hokuetsu-Shokuminsha Farm
現在の江別市に本拠を置いた「北越殖民社」の二代目社長である関矢孫左衛門は、明治26年 (1893年) に、晩生内 (おそきない) に 1,506,716坪 の未墾地の払い下げを受け、北越殖民社晩生内農場としました。新潟県北魚沼郡で村長をしていた一族の 「関矢才五郎」 は、孫左衛門の要請を受け、晩生内農場長として明治27年 (1894年) 5月15日に、二人の青年を連れて晩生内に移住し、開墾を開始しました。
== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 晩生内神社 (おそきないじんじゃ)
Osokinai Shrine in Urausu Town, Hokkaido Pref.
本社は、北越殖民社晩生内農場長の「関矢才五郎」と、隣の岩村農場の場長「岩村八作」に依って、明治29年 (1896年) 9月に創立されました。明治27年の開拓開始から二年目の事となります。場所は、北越殖民社晩生内農場と岩村農場の境目が選ばれました。小祠が建立され、天照大神、小彦名命、大国主命、天香山命を奉斎、晩生内住民を氏子として名称を「晩生内神社」としました。
==余談==
・明治維新時の慶応4年 (1868年) 、戊辰戦争の一局面として、越後の長岡藩と新政府軍の戦闘 (北越戦争) が発生しています。
司馬遼太郎の「峠」で有名になった「河井継之助」が長岡藩の家老、軍事総督として、小千谷の慈眼寺に駐留していた新政府軍監、土佐藩の「岩村精一郎(高俊)」と、5月2日 (旧暦) に会談しました。そして、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ますが、岩村に拒絶されています。これに依り北越戦争が開始され、結局、長岡藩側は敗退し、負傷した「河井継之助」は、残存部隊主力の会津藩領への撤退の途中で亡くなります。
・北越戦争で河井継之助と共に戦い、戦後は大参事となった「三島億二郎」は、唐物商の「岸宇吉」、「関矢孫左衛門」等、多くの人のの協力を得て、北越戦争後の長岡振興に取り組みます。女紅場の創設、第六十九国立銀行(北越銀行)の創設、長岡會社病院(長岡赤十字病院)の開設など、多くの取り組みがありますが、そのうちの一つとして、北海道開拓の組織として「北越殖民社」が、これらのメンバーに依って、明治19年 (1886年) に設立されます。
「北越殖民社」は、北越戦争の一方の当事者、旧長岡藩と強い関係がある事が分かります。
・岩村農場長の「岩村八作」は、北海道庁初代長官の「岩村通俊」の長男です。「岩村通俊」は、土佐藩陪臣・岩村英俊の長男として土佐国宿毛で生まれた土佐藩士でした。北越戦争の一方の当事者「岩村高俊」は、岩村英俊の三男として生まれた土佐藩士でした。
即ち、「岩村通俊」と「岩村高俊」は兄弟であり、岩村農場長の「岩村八作」から見ると、北越戦争の一方の当事者「岩村高俊」は叔父と言う事になります。
・北越戦争の四半世紀後に、戦争の双方の当事者に関係深い「北越殖民社農場」と「岩村農場」が隣り合って開墾に取り組み、更に協力して、神社を創設する。なかなか印象深い史実だと思います。
== 2021.07.10 北海道留萌市 (るもいし) 樺太引揚3船殉難慰霊碑
Memorial Monument of the victims on the three ships sunk by Soviet Union's Submarine in Rumoi City, Hokkaido Pref.
戦後1週間後の昭和20年8月22日,老人,子ども,婦人ばかり5,082人を乗せた小笠原丸ほか2隻の樺太引き揚げ船が,留萌沖で旧ソ連の潜水艦の魚雷攻撃を受け2隻が沈没した。死亡した1,708人の霊をいたみ建立された慰霊碑です。
== 2021.07.10 北海道小平町 (おびらちょう) 三船遭難慰霊之碑 (さんせんそうなんいれいのひ)
Memorial Monument of the victims on the three ships sunk by Soviet Union's Submarine in Obira Town, Hokkaido Pref.
第二次世界大戦終戦後の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で、樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、2隻が沈没して1,708名以上が犠牲となった。この事件の犠牲者の慰霊碑です。(上記の留萌市の碑と同じ事件)
<2021年7月11日>
名寄市「道の駅なよろ」 - 天塩町 - 猿払村「道の駅さるふつ公園」
== 2021.07.11 北海道音威子府村 (おといねっぷむら) 北海道命名之地 (ほっかいどうめいめいのち)
Site of Origin of the Name "HOKKAIDO" in Otoineppu Village, Hokkaido Pref.
安政4年 (1857年)、幕末の探検家・松浦武四郎は天塩から石狩川上流への道路開さく調査をした際、この場所で、アイヌの古老に「カイ・ナー」と言う言葉の意味を教えて貰いました。松浦は、明治2年(1869年)の「蝦夷地」改称に先立ち、「この国に生まれたもの」の意味の「カイ」を含めた「北加伊道」を建議し、現在の 「北海道」の名称が誕生したと言われています。
== 2021.07.11 北海道猿払村 (さるふつむら) インディギルカ号遭難者慰霊碑 (いんでぃぎるかごう・そうなんしゃいれいひ)
Memorial Monument of the Victims on Sunk Soviet Union's SS Indigirka in Sarufutsu Village, Hokkaido Pref.
この慰霊碑は、昭和14年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、建立されました。犠牲者の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船長以下の乗員や警備員の殆どは救助されました。
以下に、英語版 Wikipedia の記述を転記します。
On 8 December 1939 the Indigirka left Magadan to return to Vladivostok under Captain Nikolai Lavrentevich Lapshin. It contained 39 crew, 249 fishermen and their families, 50 prisoners under guard, and 835 prisoners with technical skills who had been released to work for the war effort. On 13 December 1939 at 2:20 am the ship ran aground in a blizzard off the Japanese coast near Sarufutsu while trying to enter the La Perouse Strait. As the ship turned over, the guards prevented the escape of the prisoners from the holds, and the ship came to rest in shallow water on its side. The Japanese rescued the captain and most of the crew, guards, and fishermen, but it took three days for any rescue of the trapped prisoners to begin. 16 December, when the Japanese rescue team then opened the hull with acetylene torches, only 28 survivors (one of whom later died) were found among more than 700 dead prisoners. Overall 741 people perished.
Captain Lapshin was tried and executed for abandoning the ship; chief of NKVD convoy who locked the prisoners in a sinking ship was sentenced to eight years.
<2021年7月12日>
猿払村「道の駅さるふつ公園」 - 興部町 - 士別市「道の駅しべつ」
== 2021.07.12 北海道稚内市宗谷岬 (そうやみさき) 祈りの塔 (いのりのとう)
Memorial Monument of the Victims on "Korean Air Lines Flight 007" in Wakkanai City, Hokkaido Pref.
昭和58年(1983年) 9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きました。
「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年 (1985年) 9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたものです。
== 2021.07.12 北海道稚内市 (わっかないし) 九人の乙女の碑 (きゅうにんのおとめのひ)
Memorial Monument of the Nine Telephone Operators died on August 20th, 1945 in Wakkanai City, Hokkaido Pref.
1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し、真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの9人が青酸カリなどを用い自決しました。この9人の慰霊碑です。尚、当日はソ連兵による爆殺、射殺による死者も出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼります。
<2021年7月13日>
士別市「道の駅しべつ」 - 上川町 - 紋別市「道の駅オホーツク紋別」
== 2021.07.13 北海道紋別市 (もんべつし) 旧上藻別駅逓所 (きゅうかみもべつえきていしょ)
Preserved Building of Kamimobetsu Relay Station in Monbetsu City, Hokkaido Pref.
大正15年 (1926年) に官設の「駅逓」として建てられました。戦前の北海道独特の建築形態を有する古建築物で、平成20年10月に国の登録有形文化財に指定されました。
== 2021.07.13 北海道湧別町 (ゆうべつちょう) 機雷殉難の塔 (きらい・じゅんなんのとう)
Memorial Monument of the Victims of Naval Mine Explosion in Yubetsu Town,, Hokkaido Pref.
湧別機雷事故とは、昭和17年 (1942年) 5月26日、北海道紋別郡下湧別村(現在の湧別町)のポント浜に国籍不明の機雷が漂着し発生した爆発事故である。海岸に漂着した機雷を爆破処理するために移動していたところ爆発し、警察官や村の警防団、見物人など112人が死亡、112名が負傷した。
=湧別町史から=
昭和17年 (1942年) の4月頃から、湧別沖に機雷らしき物が浮いて流れているという噂があり、5月下旬にワッカの海岸とポント浜に漂着し発見された。浮遊機雷が漂着したとの報告を受けた遠軽警察署長は、機雷の恐ろしさを多くの人に知らせるため、爆破作業を見学させることにし、下湧別警防団が総動員され、付近の村にも知らされ、一般の人や児童、生徒も見学のために集められた。
爆破は、5月26日午後1時に行われる予定で、爆破場所のポント浜(東五線の外海)には続々と人が集まっていた。
ところが、2個の機雷を別々に爆破させる為、1個を移動中突然爆発し大惨事となった。時まさに午前11時26分であった。
死者112名 (内、村民82名) 負傷者112名(内、村民80名) を数え、微塵に破砕されて痕跡をとどめない者、砂まみれになって飛散する五体の断片、死者、負傷者が累積して無惨を極め、丘陵を覆うはまなすは鮮血と肉片で彩られて、慄然たるものであった。
==奇跡的に生き残った八田さんの手記==
(八田さんは、当時警防団員として爆破作業に従事するため現場にいて事故にあった。)
昭和17年5月26日は、朝から蒸し暑く消防番屋を整然と出発した団員の隊伍も乱れがちで、制服の背中に汗が滲み出るほどだった。
着いた現場には、先に市街の団員で引き上げられた機雷が二個、少し離して砂の上にあった。
私は驚いて「機雷の処理は海の中でやるのが常識でないか。こんなことをして危なくないのか」と叫んだ。
するとある古参班長が「こんなもの海でやったら一里四方の魚族が全滅するんだ。沿岸漁民の一大恐慌になる」といった。
私は恐ろしくて「人を近づけるな」と言いたかったが、戦時中班長と一つ星の階級の差はそれを許さなかった。
他の班長も機雷の頭の穴を指して「こんなに錆びているから大丈夫だと思う」と言った。
その内「こんな砂の上では威力が判らないから、土の固いところまで運べ。七~八人で担げば動くと思う。漁師の番屋から長い棒を借りてこ
い。ロープも持ってこい」ということになった。
一つの組は棒を捜しに、もうひとつの組はロープを取りに行った。
私はえらいことになったと思った。ロープは来たが、棒を捜しに行った鹿野班長が、「捜しても手頃な棒が見当たりません」と帰ってきた。
「仕方がないロープで引っ張れ」ということになった。
「警防団員全員ロープに付け」と命令が出た。 全員ロープを握って歩き始めた。砂丘の高い所を過ぎるまで重かったが、下り始めて軽くなったと思っているうち、急に重くなり止まったので振り返ると、丁度漁場通いの馬車道の轍の穴に落ち高桑班長が、「もっと左のほうに引っ張れ」と指さして機雷の向きを変えようと力をいれていた。
その時青白い大きな閃光が走り爆風で吹き倒された。
伏せている間、背中に物が落ち、痛みを感じ、これで終わりかなと思った。
物が落ちなくなり空が明るくなったので立ち上がってみたら、体に落ちたものは、大きな土塊や人の体の切れ端だった。
自分の体も傷だらけで痛みを感じ、急いで大きな出血がないかを調べ、傷の大きな所を手拭いで縛り、足を引きずりながら歩き始めた。耳は片方駄目になって片方の耳で徴かに 「うーん、うーん」という叫び声が聞こえた。
黒焦げの肉切れが散乱する中を歩き始めたが、座り込み、その内に家人が来てくれて駅前の劇場(第一収容所)へ運んでくれた。
<2021年7月14日>
紋別市「道の駅オホーツク紋別」 - 陸別町 - 網走市「道の駅流氷街道網走」
== 2021.07.14 北海道遠軽町 (えんがるちょう) 国道開削殉難者慰霊之碑 (こくどうかいさくじゅんなんしゃいれいのひ)
Memorial Monument of the Victims on National Highway Construction in Engaru Town, Hokkaido Pref.
==瀬戸瀬婦人会に依る建立の趣旨==
中央道路は明治19年 (1886年) に着工され明治24年 (1891年) に完成された札幌・旭川・網走・釧路を結ぶ当時の大動脈でした。
このうち明治24年4月から同年12月にかけ集治監網走分監の囚徒を1970人使役して工事を行いました。
網走・中越間162.7kmの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため238人に及ぶ死者を出しております。
この場所は仮監跡で67体が仮埋葬されておりましたので、昭和33年46体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが未だ21体地下に眠っております。
囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに46体の遺骨を納め地下に眠る21体と合わせて殉難慰霊碑を建立するものであります。
== 2021.07.14 北海道北見市留辺蘂町 (るべしべちょう) 武華駅逓 (むかえきてい)
Preserved Building of Muka Relay Station in Kitami City, Hokkaido Pref.
大正9年 (1920年) に開設された現存する管内最古の駅逓で、現在もそのままの姿で保存されています。建物は日本建築学会から近代日本の名建築に選ばれています。
== 2021.07.14 北海道北見市端野町 (たんのちょう) 鎖塚供養碑 (くさりづかくようひ)
Merorial Monument of Kusarizuka in Kitami City, Hokkaido Pref.
明治時代の北海道では、軍用・開拓用の道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え、オホーツク海沿岸の網走市に達する中央横断道路もその一つである。この道路は釧路集治監網走分監 (現:網走刑務所) と空知集治監の囚人1115人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。北見峠 - 網走間が明治24年 (1891年) 4月に着工、突貫工事で同年12月には完成した。深夜に及ぶ過酷な労働に加え、満足な寝所もない劣悪な環境、白米中心の食事による脚気などで、囚人211人、看守6人が死亡した。
鎖塚は、当時の囚人たちが、死亡した囚人仲間を弔うために、鎖をつけられたまま死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土饅頭の塚のことである。これらの土饅頭の塚には、墓標の目印として置かれた鎖や、鎖のついた人骨が入植者らによって見つけられたことから鎖塚の名で呼ばれるようになった。
昭和51年 (1976年) 10月17日、端野町開基80周年のおりに、町民が創設した鎖塚慰霊事業協賛会によって、囚人を開拓の功労者として鎖塚供養碑と六地蔵が建立された。
<2021年7月15日>
網走市「道の駅流氷街道網走」 - 佐呂間町 - 斜里町「道の駅うとろ・シリエトク」
<2021年7月16日>
斜里町「道の駅うとろ・シリエトク」 - 弟子屈町 - 根室市「道の駅スワン44ねむろ」
== 2021.07.16 北海道別海町 (べつかいちょう) 第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱 (いのうただたか)
The Most East Arrival Point by the Surveying Team of TADATAKA INO on 1800 in Betsukai Town, Hokkaido Pref.
江戸時代に17年かけて日本全国を測量し、日本で最初に実測による日本地図を作製した偉人として知られる伊能忠敬は、1800年に行った第一次測量時、江戸から3か月ほどかけて9月25日にニシベツ (現在の本別海西別川河口付近) に到着し、その夜に測量しました。
== 2021.07.16 北海道別海町 (べつかいちょう) 奥行臼駅逓 (おくゆきうすえきてい)
Preserved Building of Okuyukiusu Relay Station in Betsukai Town, Hokkaido Pref.
平成23年9月21日に国の史跡に指定された旧奥行臼駅逓所は、明治43年10月にこの地区の世話役であった山崎藤次郎氏を駅逓取扱人として開設されました。
廃止となる昭和5年6月まで別海(現在の本別海)・西別(現在の別海市街)・別当賀方面への分岐点にある駅逓所として旅人に利用され、鉄道など未発達なころ、開拓に欠かせない拠点の一つとして、活躍しました。
== 2021.07.16 北海道根室市 (ねむろし) 日本の最東端 (にほんのさいとうたん)
The Most East Point of Japan in Nemuro City, Hokkaido Pref.
今まで納沙布岬には三回ほど訪れていますが、最東端は灯台の所だと気が付いたので、改めて訪れました。
<2021年7月17日>
根室市「道の駅スワン44ねむろ」 - 釧路市 - 足寄町「道の駅あしょろ銀河ホール21」
== 2021.07.17 北海道標茶町 (しべちゃちょう) 塘路駅逓所 (とうろえきていしょ)
Preserved Building of Touro Relay Station in Shibecha Town, Hokkaido Pref.
塘路駅逓所は明治23年 (1890年) 6月に設置され、釧網線が開通した翌年、昭和3年 (1928年) 6月30日にその役目を終えて廃止となりました。なお建物自体は明治17年 (1884年) に漁業番屋として、家主自らが釧路川の流木を使い建てた建設されたと伝えられています。駅逓廃止後は、一般の民家として昭和40年代まで使われました。
<2021年7月18日>
足寄町「道の駅あしょろ銀河ホール21」- 帯広市 - ひだか町「道の駅みついし」
<2021年7月19日>
ひだか町「道の駅みついし」 - 室蘭市 - 函館市「道の駅なとわ・えさん」
== 2021.07.19 北海道ひだか町 (ひだかちょう) シャクシャイン像とシベチャリチャシ跡
Statue of Saksaynu and Remains of His Fort in Hidaka Town, Hokkaido Pref.
「シベチャリチャシ跡」は、寛文9年 (1669年) の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。
== 2021.07.19 北海道むかわ町 (むかわちょう) 八王子千人同心追悼之碑 (はちおうじ せんにんどうしん ついとうのひ)
Memorial Monument of Hachiouji-Sen-nin-Dojin in Mukawa Town, Hokkaido Pref.
寛政12年 (1800年)、八王子千人同心一行100人が江戸を出発し、白糠と勇払へ向います。一行のうち50人が勇払に拠点を置き、主力は南部藩の警備を補うため、目的地の白糠で任務にあたりました。翌年の享和元年 (1801年) に、勇払へ来た第2陣は、わずか30人にとどまりました。移住隊士による開拓事業は、極寒のために多数の死者が出るなど困難を極め、文化元(1804)年に中止となりました。蝦夷地で活躍した130人のうち、冬場の寒さや野菜不足による壊血病による死者が32人、残留者は函館9人、白糠26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人でした。
<2021年7月20日>
函館市「道の駅なとわ・えさん」 - 松前町 - 厚沢部町「道の駅あっさぶ」
== 2021.07.20 北海道松前町 (まつまえちょう) 松前城跡からの眺望
View from Matsumae Castle Remains in Matsumae Town, Hokkaido Pref.
== 2021.07.20 北海道上ノ国町 (かみのくにちょう) 旧笹浪家住宅 (きゅうささなみけじゅうたく)
Preserved Building of SASANAMI Family's Residence in Kaminokuni Town, Hokkaido Pref.
旧笹浪家住宅は、19世紀前期に五代目久右衛門が建てたといわれるもので、北海道に現存する民家建築としては最も古く、北海道の日本海沿岸に今も残るニシン番屋の原型とも言われております。平成4年には、当時のニシン漁の繁栄を今に伝える貴重な建物として主屋と附属土蔵が重要文化財に指定されています。
== 2021.07.20 北海道江差町 (えさしちょう) 横山家 (よこやまけ)
Historical Residence of YOKOYAMA Family in Esashi Town, Hokkaido Pref.
現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋で、昭和38年に道の文化財指定を受けました。
<2021年7月21日>
厚沢部町「道の駅あっさぶ」 - 寿都町 - 京極町「道の駅名水の郷きょうごく」
<2021年7月22日>
京極町「道の駅名水の郷きょうごく」 - 旭川市 - 秩父別町「道の駅鐘のなるまち・ちっぷべつ」
== 2021.07.22 北海道泊村 (とまりむら) 鰊御殿とまり (にしんごてん・とまり)
Preserved Building of Dormitory House for Herring Fishermen in Tomari Village, Hokkaido Pref.
「旧川村家番屋」は、明治27年 (1884年) に親方の川村慶次郎氏によって、漁場を経営する親方と雇った漁夫たちが共同生活をするために建てられた建物です。
<2021年7月23日>
秩父別町「道の駅鐘のなるまち・ちっぷべつ」 - 富良野市 - 余市町「道の駅スペース・アップルよいち」
== 2021.07.23 北海道沼田町 (ぬまたちょう) 本願寺駅逓 (ほんがんじえきてい)
Preserved Building of Honganji Relay Station in Numata Town, Hokkaido Pref.
本願寺駅逓は明治27年 (1894年) に建てられ、明治33年 (1900年) に駅逓所として官許されました。道内に現存する駅逓の中で旧態をとどめている数少ないひとつでもあり、昭和46年 (1971年) に道指定文化財に指定されました。
== 2021.07.23 北海道南幌町 (なんぽろちょう) 旧幌向駅逓所 (きゅうほろむいえきていしょ)
Preserved Building of Horomui Relay Station in Nanporo Town, Hokkaido Pref.
旧幌向駅逓所は昭和3年 (1928年) 3月に新築されました。年間平均550人の宿泊者に利用され、主な利用者は官庁の役人や行商人でした。
平成18年 (2006年) 9月に国の登録有形文化財に指定されました。
<2021年7月24日>
余市町「道の駅スペース・アップルよいち」 - 北広島市 - 小樽港
== 2021.07.24 北海道余市町 (よいちちょう) 旧余市福原漁場 (きゅうよいちふくはらぎょじょう)
Preserved Buildings of Fukuhara Herring Fishery Firm in Yoichi Town, Hokkaido Pref.
余市町浜中町に幕末から定住し、ニシン漁を行っていた福原家が所有していた建物群が福原漁場です。主屋である番屋は出稼ぎの漁夫の宿泊空間です。藁製品や食料を保管していた米味噌倉、重要な書類や衣服が保管されていた文書庫や漁で使う網などを収めていた網倉、ニシンからとったカズノコ・白子を干して製品にした干場などが、当時と同じ姿で保存されています。
== 2021.07.24 北海道札幌市 (さっぽろし) 旧簾舞通行屋 (きゅうみすまいつうこうや)
Preserved Building of Misumai Accommodation in Sapporo City, Hokkaido Pref.
明治20年 (1887年) に通行屋の屋守だった黒岩家によって現在地に移築されました。その後の増築を経て、宿泊機能を考慮した通行屋の間取りと、開拓農家によく見られた小屋、納屋などを備えた現在の姿になっています。
== 2021.07.24 北海道北広島市 (きたひろしまし) 旧島松駅逓所 (きゅうしままつえきていしょ)
Preserved Building of Shimamatsu Relay Station in Kita-Hiroshima City, Hokkaido Pref.
島松駅逓所は、明治6年 (1873年) に札幌本道 (現在の国道36号) の開通に伴い、官設駅逓所として島松川の右岸に設置されたのが始まりです。
明治30年 (1897年) に廃止されました。
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