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新潟港からのフェリーで、2021年7月9日出発、7月25日帰着で、北海道旅行に出かけました。
コロナワクチンは早々に接種済みですし、感染状況も落ち着いて来て、北海道に指定されていた「まん延防止等重点措置区域」は7月11日に解除されました。
走行は例の如く高速道路は使わず、全て下道の旅です、走行距離は 5,196km、所要ガソリン量は 244.27L でした。

<2021年7月10日 - 24日 全ルート>
北海道旅行ルート

<2021年7月10日>
小樽港 - 苫前町 - 名寄市「道の駅なよろ」

== 2021.07.10 北海道江別市江別太 (えべつぶと) 越後神社 (えちごじんじゃ)
Echigo Shrine in Ebetsu City, Hokkaido Pref.
  明治の北海道開拓が始まった時代、幌向原野の一角を占める江別太 (えべつぶと) 開拓の草分けとなったのは、現在の新潟県長岡市に設立された北海道開拓組織である 「北越殖民社」 でした。この北越殖民社が 明治19年 (1886年)に、江別太に試験入植させて出来たのが 「越後村」でした。その 「越後村」 の開村10年目にあたる明治28年 (1895年) 5月に、新潟県にある彌彦神社の分霊を受けて創建された神社が 「越後神社」 です。同年10月には、境内に開村記念碑が建てられています。


== 2021.07.10 北海道月形町 篠津山囚人墓地 (しのつやましゅうじんぼち)
Shinotsuyama Prisoner's Cemetery in Tsukigata Town, Hokkaido Pref.
  明治維新後の多くの動乱 (佐賀の乱、西南の役など) で多数の国事犯が出たため、明治新政府は、当時未開の地であった 「北海道」 を流刑地として囚人を送り込む計画を立て、明治14年 (1881年) に全国で3番目の集治監である 「樺戸集治監」 を、現在の月形町に作りました。
篠津山囚人墓地には、樺戸集治監の明治14年の開監から大正8年の廃監までの39年間に獄死した 1,046名 のうち、引き取り手が無かった 1,022名 の無縁仏が眠っています。
現在の綺麗な状態は、1981年度から3年間で整備されました。


== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 岩村農場開基百年記念碑
100 Years Monument of Iwamura Farm
  岩村農場は、岩村八作に依って、明治26年 (1893年) 2月に晩生内 (おそきない) に開かれ、翌年の2月に入植が開始されました。岩村八作は、北海道庁の初代長官となった 「岩村通俊」 の長男です。広さは 512,400坪 ありました。


== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 北越殖民社農場開基百年記念碑
100 Years Monument of Hokuetsu-Shokuminsha Farm
  現在の江別市に本拠を置いた「北越殖民社」の二代目社長である関矢孫左衛門は、明治26年 (1893年) に、晩生内 (おそきない) に 1,506,716坪 の未墾地の払い下げを受け、北越殖民社晩生内農場としました。新潟県北魚沼郡で村長をしていた一族の 「関矢才五郎」 は、孫左衛門の要請を受け、晩生内農場長として明治27年 (1894年) 5月15日に、二人の青年を連れて晩生内に移住し、開墾を開始しました。


== 2021.07.10 北海道浦臼町晩生内 (おそきない) 晩生内神社 (おそきないじんじゃ)
Osokinai Shrine in Urausu Town, Hokkaido Pref.
  本社は、北越殖民社晩生内農場長の「関矢才五郎」と、隣の岩村農場の場長「岩村八作」に依って、明治29年 (1896年) 9月に創立されました。明治27年の開拓開始から二年目の事となります。場所は、北越殖民社晩生内農場と岩村農場の境目が選ばれました。小祠が建立され、天照大神、小彦名命、大国主命、天香山命を奉斎、晩生内住民を氏子として名称を「晩生内神社」としました。

==余談==
・明治維新時の慶応4年 (1868年) 、戊辰戦争の一局面として、越後の長岡藩と新政府軍の戦闘 (北越戦争) が発生しています。
司馬遼太郎の「峠」で有名になった「河井継之助」が長岡藩の家老、軍事総督として、小千谷の慈眼寺に駐留していた新政府軍監、土佐藩の「岩村精一郎(高俊)」と、5月2日 (旧暦) に会談しました。そして、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ますが、岩村に拒絶されています。これに依り北越戦争が開始され、結局、長岡藩側は敗退し、負傷した「河井継之助」は、残存部隊主力の会津藩領への撤退の途中で亡くなります。
・北越戦争で河井継之助と共に戦い、戦後は大参事となった「三島億二郎」は、唐物商の「岸宇吉」、「関矢孫左衛門」等、多くの人のの協力を得て、北越戦争後の長岡振興に取り組みます。女紅場の創設、第六十九国立銀行(北越銀行)の創設、長岡會社病院(長岡赤十字病院)の開設など、多くの取り組みがありますが、そのうちの一つとして、北海道開拓の組織として「北越殖民社」が、これらのメンバーに依って、明治19年 (1886年) に設立されます。
「北越殖民社」は、北越戦争の一方の当事者、旧長岡藩と強い関係がある事が分かります。
・岩村農場長の「岩村八作」は、北海道庁初代長官の「岩村通俊」の長男です。「岩村通俊」は、土佐藩陪臣・岩村英俊の長男として土佐国宿毛で生まれた土佐藩士でした。北越戦争の一方の当事者「岩村高俊」は、岩村英俊の三男として生まれた土佐藩士でした。
即ち、「岩村通俊」と「岩村高俊」は兄弟であり、岩村農場長の「岩村八作」から見ると、北越戦争の一方の当事者「岩村高俊」は叔父と言う事になります。
・北越戦争の四半世紀後に、戦争の双方の当事者に関係深い「北越殖民社農場」と「岩村農場」が隣り合って開墾に取り組み、更に協力して、神社を創設する。なかなか印象深い史実だと思います。

== 2021.07.10 北海道留萌市 (るもいし) 樺太引揚3船殉難慰霊碑 
Memorial Monument of the victims on the three ships sunk by Soviet Union's Submarine in Rumoi City, Hokkaido Pref.
  戦後1週間後の昭和20年8月22日,老人,子ども,婦人ばかり5,082人を乗せた小笠原丸ほか2隻の樺太引き揚げ船が,留萌沖で旧ソ連の潜水艦の魚雷攻撃を受け2隻が沈没した。死亡した1,708人の霊をいたみ建立された慰霊碑です。


== 2021.07.10 北海道小平町 (おびらちょう) 三船遭難慰霊之碑 (さんせんそうなんいれいのひ) 
Memorial Monument of the victims on the three ships sunk by Soviet Union's Submarine in Obira Town, Hokkaido Pref.
  第二次世界大戦終戦後の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で、樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、2隻が沈没して1,708名以上が犠牲となった。この事件の犠牲者の慰霊碑です。(上記の留萌市の碑と同じ事件)



<2021年7月11日>
名寄市「道の駅なよろ」 - 天塩町 - 猿払村「道の駅さるふつ公園」

== 2021.07.11 北海道音威子府村 (おといねっぷむら) 北海道命名之地 (ほっかいどうめいめいのち)
Site of Origin of the Name "HOKKAIDO" in Otoineppu Village, Hokkaido Pref.
  安政4年 (1857年)、幕末の探検家・松浦武四郎は天塩から石狩川上流への道路開さく調査をした際、この場所で、アイヌの古老に「カイ・ナー」と言う言葉の意味を教えて貰いました。松浦は、明治2年(1869年)の「蝦夷地」改称に先立ち、「この国に生まれたもの」の意味の「カイ」を含めた「北加伊道」を建議し、現在の 「北海道」の名称が誕生したと言われています。


== 2021.07.11 北海道猿払村 (さるふつむら) インディギルカ号遭難者慰霊碑 (いんでぃぎるかごう・そうなんしゃいれいひ)
Memorial Monument of the Victims on Sunk Soviet Union's SS Indigirka in Sarufutsu Village, Hokkaido Pref.
  この慰霊碑は、昭和14年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、建立されました。犠牲者の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船長以下の乗員や警備員の殆どは救助されました。
以下に、英語版 Wikipedia の記述を転記します。
  On 8 December 1939 the Indigirka left Magadan to return to Vladivostok under Captain Nikolai Lavrentevich Lapshin. It contained 39 crew, 249 fishermen and their families, 50 prisoners under guard, and 835 prisoners with technical skills who had been released to work for the war effort. On 13 December 1939 at 2:20 am the ship ran aground in a blizzard off the Japanese coast near Sarufutsu while trying to enter the La Perouse Strait. As the ship turned over, the guards prevented the escape of the prisoners from the holds, and the ship came to rest in shallow water on its side. The Japanese rescued the captain and most of the crew, guards, and fishermen, but it took three days for any rescue of the trapped prisoners to begin. 16 December, when the Japanese rescue team then opened the hull with acetylene torches, only 28 survivors (one of whom later died) were found among more than 700 dead prisoners. Overall 741 people perished.
Captain Lapshin was tried and executed for abandoning the ship; chief of NKVD convoy who locked the prisoners in a sinking ship was sentenced to eight years.



<2021年7月12日>
猿払村「道の駅さるふつ公園」 - 興部町 - 士別市「道の駅しべつ」

== 2021.07.12 北海道稚内市宗谷岬 (そうやみさき) 祈りの塔 (いのりのとう)
Memorial Monument of the Victims on "Korean Air Lines Flight 007" in Wakkanai City, Hokkaido Pref.
  昭和58年(1983年) 9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きました。
「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年 (1985年) 9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたものです。


== 2021.07.12 北海道稚内市 (わっかないし) 九人の乙女の碑 (きゅうにんのおとめのひ)
Memorial Monument of the Nine Telephone Operators died on August 20th, 1945 in Wakkanai City, Hokkaido Pref.
  1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し、真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの9人が青酸カリなどを用い自決しました。この9人の慰霊碑です。尚、当日はソ連兵による爆殺、射殺による死者も出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼります。



<2021年7月13日>
士別市「道の駅しべつ」 - 上川町 - 紋別市「道の駅オホーツク紋別」

== 2021.07.13 北海道紋別市 (もんべつし) 旧上藻別駅逓所 (きゅうかみもべつえきていしょ)
Preserved Building of Kamimobetsu Relay Station in Monbetsu City, Hokkaido Pref.
  大正15年 (1926年) に官設の「駅逓」として建てられました。戦前の北海道独特の建築形態を有する古建築物で、平成20年10月に国の登録有形文化財に指定されました。


== 2021.07.13 北海道湧別町 (ゆうべつちょう) 機雷殉難の塔 (きらい・じゅんなんのとう)
Memorial Monument of the Victims of Naval Mine Explosion in Yubetsu Town,, Hokkaido Pref.
  湧別機雷事故とは、昭和17年 (1942年) 5月26日、北海道紋別郡下湧別村(現在の湧別町)のポント浜に国籍不明の機雷が漂着し発生した爆発事故である。海岸に漂着した機雷を爆破処理するために移動していたところ爆発し、警察官や村の警防団、見物人など112人が死亡、112名が負傷した。

=湧別町史から=
 昭和17年 (1942年) の4月頃から、湧別沖に機雷らしき物が浮いて流れているという噂があり、5月下旬にワッカの海岸とポント浜に漂着し発見された。浮遊機雷が漂着したとの報告を受けた遠軽警察署長は、機雷の恐ろしさを多くの人に知らせるため、爆破作業を見学させることにし、下湧別警防団が総動員され、付近の村にも知らされ、一般の人や児童、生徒も見学のために集められた。
 爆破は、5月26日午後1時に行われる予定で、爆破場所のポント浜(東五線の外海)には続々と人が集まっていた。
 ところが、2個の機雷を別々に爆破させる為、1個を移動中突然爆発し大惨事となった。時まさに午前11時26分であった。
 死者112名 (内、村民82名) 負傷者112名(内、村民80名) を数え、微塵に破砕されて痕跡をとどめない者、砂まみれになって飛散する五体の断片、死者、負傷者が累積して無惨を極め、丘陵を覆うはまなすは鮮血と肉片で彩られて、慄然たるものであった。

==奇跡的に生き残った八田さんの手記==
(八田さんは、当時警防団員として爆破作業に従事するため現場にいて事故にあった。)
 昭和17年5月26日は、朝から蒸し暑く消防番屋を整然と出発した団員の隊伍も乱れがちで、制服の背中に汗が滲み出るほどだった。
 着いた現場には、先に市街の団員で引き上げられた機雷が二個、少し離して砂の上にあった。
 私は驚いて「機雷の処理は海の中でやるのが常識でないか。こんなことをして危なくないのか」と叫んだ。
 するとある古参班長が「こんなもの海でやったら一里四方の魚族が全滅するんだ。沿岸漁民の一大恐慌になる」といった。
 私は恐ろしくて「人を近づけるな」と言いたかったが、戦時中班長と一つ星の階級の差はそれを許さなかった。
 他の班長も機雷の頭の穴を指して「こんなに錆びているから大丈夫だと思う」と言った。
 その内「こんな砂の上では威力が判らないから、土の固いところまで運べ。七~八人で担げば動くと思う。漁師の番屋から長い棒を借りてこ
い。ロープも持ってこい」ということになった。
 一つの組は棒を捜しに、もうひとつの組はロープを取りに行った。
私はえらいことになったと思った。ロープは来たが、棒を捜しに行った鹿野班長が、「捜しても手頃な棒が見当たりません」と帰ってきた。
 「仕方がないロープで引っ張れ」ということになった。
 「警防団員全員ロープに付け」と命令が出た。 全員ロープを握って歩き始めた。砂丘の高い所を過ぎるまで重かったが、下り始めて軽くなったと思っているうち、急に重くなり止まったので振り返ると、丁度漁場通いの馬車道の轍の穴に落ち高桑班長が、「もっと左のほうに引っ張れ」と指さして機雷の向きを変えようと力をいれていた。
 その時青白い大きな閃光が走り爆風で吹き倒された。
 伏せている間、背中に物が落ち、痛みを感じ、これで終わりかなと思った。
 物が落ちなくなり空が明るくなったので立ち上がってみたら、体に落ちたものは、大きな土塊や人の体の切れ端だった。
 自分の体も傷だらけで痛みを感じ、急いで大きな出血がないかを調べ、傷の大きな所を手拭いで縛り、足を引きずりながら歩き始めた。耳は片方駄目になって片方の耳で徴かに 「うーん、うーん」という叫び声が聞こえた。
黒焦げの肉切れが散乱する中を歩き始めたが、座り込み、その内に家人が来てくれて駅前の劇場(第一収容所)へ運んでくれた。


<2021年7月14日>
紋別市「道の駅オホーツク紋別」 - 陸別町 - 網走市「道の駅流氷街道網走」

== 2021.07.14 北海道遠軽町 (えんがるちょう) 国道開削殉難者慰霊之碑 (こくどうかいさくじゅんなんしゃいれいのひ)
Memorial Monument of the Victims on National Highway Construction in Engaru Town, Hokkaido Pref.
==瀬戸瀬婦人会に依る建立の趣旨==
中央道路は明治19年 (1886年) に着工され明治24年 (1891年) に完成された札幌・旭川・網走・釧路を結ぶ当時の大動脈でした。
このうち明治24年4月から同年12月にかけ集治監網走分監の囚徒を1970人使役して工事を行いました。
網走・中越間162.7kmの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため238人に及ぶ死者を出しております。
この場所は仮監跡で67体が仮埋葬されておりましたので、昭和33年46体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが未だ21体地下に眠っております。
囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに46体の遺骨を納め地下に眠る21体と合わせて殉難慰霊碑を建立するものであります。


== 2021.07.14 北海道北見市留辺蘂町 (るべしべちょう) 武華駅逓 (むかえきてい)
Preserved Building of Muka Relay Station in Kitami City, Hokkaido Pref.
  大正9年 (1920年) に開設された現存する管内最古の駅逓で、現在もそのままの姿で保存されています。建物は日本建築学会から近代日本の名建築に選ばれています。


== 2021.07.14 北海道北見市端野町 (たんのちょう) 鎖塚供養碑 (くさりづかくようひ)
Merorial Monument of Kusarizuka in Kitami City, Hokkaido Pref.
  明治時代の北海道では、軍用・開拓用の道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え、オホーツク海沿岸の網走市に達する中央横断道路もその一つである。この道路は釧路集治監網走分監 (現:網走刑務所) と空知集治監の囚人1115人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。北見峠 - 網走間が明治24年 (1891年) 4月に着工、突貫工事で同年12月には完成した。深夜に及ぶ過酷な労働に加え、満足な寝所もない劣悪な環境、白米中心の食事による脚気などで、囚人211人、看守6人が死亡した。
鎖塚は、当時の囚人たちが、死亡した囚人仲間を弔うために、鎖をつけられたまま死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土饅頭の塚のことである。これらの土饅頭の塚には、墓標の目印として置かれた鎖や、鎖のついた人骨が入植者らによって見つけられたことから鎖塚の名で呼ばれるようになった。
昭和51年 (1976年) 10月17日、端野町開基80周年のおりに、町民が創設した鎖塚慰霊事業協賛会によって、囚人を開拓の功労者として鎖塚供養碑と六地蔵が建立された。



<2021年7月15日>
網走市「道の駅流氷街道網走」 - 佐呂間町 - 斜里町「道の駅うとろ・シリエトク」

<2021年7月16日>
斜里町「道の駅うとろ・シリエトク」 - 弟子屈町 - 根室市「道の駅スワン44ねむろ」

== 2021.07.16 北海道別海町 (べつかいちょう) 第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱 (いのうただたか)
The Most East Arrival Point by the Surveying Team of TADATAKA INO on 1800 in Betsukai Town, Hokkaido Pref.
  江戸時代に17年かけて日本全国を測量し、日本で最初に実測による日本地図を作製した偉人として知られる伊能忠敬は、1800年に行った第一次測量時、江戸から3か月ほどかけて9月25日にニシベツ (現在の本別海西別川河口付近) に到着し、その夜に測量しました。


== 2021.07.16 北海道別海町 (べつかいちょう) 奥行臼駅逓 (おくゆきうすえきてい)
Preserved Building of Okuyukiusu Relay Station in Betsukai Town, Hokkaido Pref.
  平成23年9月21日に国の史跡に指定された旧奥行臼駅逓所は、明治43年10月にこの地区の世話役であった山崎藤次郎氏を駅逓取扱人として開設されました。
 廃止となる昭和5年6月まで別海(現在の本別海)・西別(現在の別海市街)・別当賀方面への分岐点にある駅逓所として旅人に利用され、鉄道など未発達なころ、開拓に欠かせない拠点の一つとして、活躍しました。


== 2021.07.16 北海道根室市 (ねむろし) 日本の最東端 (にほんのさいとうたん)
The Most East Point of Japan in Nemuro City, Hokkaido Pref.
  今まで納沙布岬には三回ほど訪れていますが、最東端は灯台の所だと気が付いたので、改めて訪れました。



<2021年7月17日>
根室市「道の駅スワン44ねむろ」 - 釧路市 - 足寄町「道の駅あしょろ銀河ホール21」

== 2021.07.17 北海道標茶町 (しべちゃちょう) 塘路駅逓所 (とうろえきていしょ)
Preserved Building of Touro Relay Station in Shibecha Town, Hokkaido Pref.
  塘路駅逓所は明治23年 (1890年) 6月に設置され、釧網線が開通した翌年、昭和3年 (1928年) 6月30日にその役目を終えて廃止となりました。なお建物自体は明治17年 (1884年) に漁業番屋として、家主自らが釧路川の流木を使い建てた建設されたと伝えられています。駅逓廃止後は、一般の民家として昭和40年代まで使われました。



<2021年7月18日>
足寄町「道の駅あしょろ銀河ホール21」- 帯広市 - ひだか町「道の駅みついし」

<2021年7月19日>
ひだか町「道の駅みついし」 - 室蘭市 - 函館市「道の駅なとわ・えさん」

== 2021.07.19 北海道ひだか町 (ひだかちょう) シャクシャイン像とシベチャリチャシ跡
Statue of Saksaynu and Remains of His Fort in Hidaka Town, Hokkaido Pref.
  「シベチャリチャシ跡」は、寛文9年 (1669年) の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。


== 2021.07.19 北海道むかわ町 (むかわちょう) 八王子千人同心追悼之碑 (はちおうじ せんにんどうしん ついとうのひ)
Memorial Monument of Hachiouji-Sen-nin-Dojin in Mukawa Town, Hokkaido Pref.
  寛政12年 (1800年)、八王子千人同心一行100人が江戸を出発し、白糠と勇払へ向います。一行のうち50人が勇払に拠点を置き、主力は南部藩の警備を補うため、目的地の白糠で任務にあたりました。翌年の享和元年 (1801年) に、勇払へ来た第2陣は、わずか30人にとどまりました。移住隊士による開拓事業は、極寒のために多数の死者が出るなど困難を極め、文化元(1804)年に中止となりました。蝦夷地で活躍した130人のうち、冬場の寒さや野菜不足による壊血病による死者が32人、残留者は函館9人、白糠26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人でした。



<2021年7月20日>
函館市「道の駅なとわ・えさん」 - 松前町 - 厚沢部町「道の駅あっさぶ」

== 2021.07.20 北海道松前町 (まつまえちょう) 松前城跡からの眺望
View from Matsumae Castle Remains in Matsumae Town, Hokkaido Pref.


== 2021.07.20 北海道上ノ国町 (かみのくにちょう) 旧笹浪家住宅 (きゅうささなみけじゅうたく)
Preserved Building of  SASANAMI Family's Residence in Kaminokuni Town, Hokkaido Pref.
  旧笹浪家住宅は、19世紀前期に五代目久右衛門が建てたといわれるもので、北海道に現存する民家建築としては最も古く、北海道の日本海沿岸に今も残るニシン番屋の原型とも言われております。平成4年には、当時のニシン漁の繁栄を今に伝える貴重な建物として主屋と附属土蔵が重要文化財に指定されています。


== 2021.07.20 北海道江差町 (えさしちょう) 横山家 (よこやまけ)
Historical Residence of YOKOYAMA Family in Esashi Town, Hokkaido Pref.
現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋で、昭和38年に道の文化財指定を受けました。



<2021年7月21日>
厚沢部町「道の駅あっさぶ」 - 寿都町 - 京極町「道の駅名水の郷きょうごく」

<2021年7月22日>
京極町「道の駅名水の郷きょうごく」 - 旭川市 - 秩父別町「道の駅鐘のなるまち・ちっぷべつ」

== 2021.07.22 北海道泊村 (とまりむら) 鰊御殿とまり (にしんごてん・とまり)
Preserved Building of Dormitory House for Herring Fishermen in Tomari Village, Hokkaido Pref.
  「旧川村家番屋」は、明治27年 (1884年) に親方の川村慶次郎氏によって、漁場を経営する親方と雇った漁夫たちが共同生活をするために建てられた建物です。



<2021年7月23日>
秩父別町「道の駅鐘のなるまち・ちっぷべつ」 - 富良野市 - 余市町「道の駅スペース・アップルよいち」

== 2021.07.23 北海道沼田町 (ぬまたちょう) 本願寺駅逓 (ほんがんじえきてい)
Preserved Building of Honganji Relay Station in Numata Town, Hokkaido Pref.
  本願寺駅逓は明治27年 (1894年) に建てられ、明治33年 (1900年) に駅逓所として官許されました。道内に現存する駅逓の中で旧態をとどめている数少ないひとつでもあり、昭和46年 (1971年) に道指定文化財に指定されました。


== 2021.07.23 北海道南幌町 (なんぽろちょう) 旧幌向駅逓所 (きゅうほろむいえきていしょ)
Preserved Building of Horomui Relay Station in Nanporo Town, Hokkaido Pref.
  旧幌向駅逓所は昭和3年 (1928年) 3月に新築されました。年間平均550人の宿泊者に利用され、主な利用者は官庁の役人や行商人でした。
平成18年 (2006年) 9月に国の登録有形文化財に指定されました。



<2021年7月24日>
余市町「道の駅スペース・アップルよいち」 - 北広島市 - 小樽港

== 2021.07.24 北海道余市町 (よいちちょう) 旧余市福原漁場 (きゅうよいちふくはらぎょじょう)
Preserved Buildings of Fukuhara Herring Fishery Firm in Yoichi Town, Hokkaido Pref.
  余市町浜中町に幕末から定住し、ニシン漁を行っていた福原家が所有していた建物群が福原漁場です。主屋である番屋は出稼ぎの漁夫の宿泊空間です。藁製品や食料を保管していた米味噌倉、重要な書類や衣服が保管されていた文書庫や漁で使う網などを収めていた網倉、ニシンからとったカズノコ・白子を干して製品にした干場などが、当時と同じ姿で保存されています。


== 2021.07.24 北海道札幌市 (さっぽろし) 旧簾舞通行屋 (きゅうみすまいつうこうや)
Preserved Building of Misumai Accommodation in Sapporo City, Hokkaido Pref.
  明治20年 (1887年) に通行屋の屋守だった黒岩家によって現在地に移築されました。その後の増築を経て、宿泊機能を考慮した通行屋の間取りと、開拓農家によく見られた小屋、納屋などを備えた現在の姿になっています。


== 2021.07.24 北海道北広島市 (きたひろしまし) 旧島松駅逓所 (きゅうしままつえきていしょ)
Preserved Building of Shimamatsu Relay Station in Kita-Hiroshima City, Hokkaido Pref.
  島松駅逓所は、明治6年 (1873年) に札幌本道 (現在の国道36号) の開通に伴い、官設駅逓所として島松川の右岸に設置されたのが始まりです。
明治30年 (1897年) に廃止されました。


**** END ****

2019年7月4日から13日に掛けて、北海道内の旅行に行ってきました。北海道旅行は、今回で三回目となります。
例のごとく、「日本100名城」、「続日本100名城」、「日本神社100選」、「名刹巡礼 古寺100選」、「日本の史跡101選」の登録地を巡る旅です。但し北海道には、この種の施設の数は多くありませんので、自分が行きたい一般的観光地も加えてあります。
新潟-小樽間のカーフェリーを往復とも利用しました。走行は例の如く高速道路は使わず、全て下道の旅です、走行距離は 3,498km 、所要ガソリン量は 145.64L でした。


<2019年7月5日 - 12日 全ルート (北海道内のみ)>
Allroute


<2019年7月5日>
01route

==2019.7.5 北海道積丹町 島武意海岸 (しまむいかいがん) ==
Seashore of Shimamui in Shakotan Town, Hokaido Pref.
島武意海岸は、「日本の渚百選」に選ばれています。


==2019.7.5 北海道積丹町 神威岬 (かむいみさき) ==
Cape Kamui in Shakotan Town, Hokkaido Pref.
蝦夷地の奥地に和人が定住することで権益を損なうことを恐れた松前藩は、1691(元禄4)年に「神威岬以北への女人通行禁止令」を出しています。


==2019.7.5 北海道上ノ国町 勝山館跡 (かつやまだて) ==
Ruined Katsuyama Castle in Kaminokuni Town, Hokkaido Pref.
文明5年(1473年)頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされている。その後、蠣崎氏は松前藩をひらきました。



<2019年7月6日>
02route

=2019.7.6 北海道函館市 志苔館跡 (しのりたて) ==
Ruined Shinori Castle in Hakodate City, Hokkaido Pref.
蝦夷地に渡来してきた和人が14~15世紀ごろに築いた館のうち、学術上で存在が認められているものを総称して「道南十二館」と呼び、「志苔館」 は、その一つです。

==2019.7.6 北海道函館市 高龍寺 (こうりゅうじ) ==
Koryu-ji Temple in Hakodate City, Hokkaido Pref.
高龍寺は、曹洞宗の寺院で、函館市内にある最古の寺院です。


==2019.7.6 北海道登別市 地獄谷 (じごくだに) ==
Explosion Craters in Noboribetsu City, Hokkaido Pref.
地獄谷は、登別市にある爆裂火口群です。



<2019年7月7日>
03route

=2019.7.7 北海道釧路町 細岡展望台(ほそおかてんぼうだい) ==
Hoso-oka Viewing Spot in Kushiro Town, Hokkaido Pref.
日本最大の湿原である釧路湿原を見渡す展望台はいくつかありますが、細岡展望台はその一つです。


==2019.7.7 北海道根室市 納沙布岬 (のさっぷみさき) ==
Cape Nosappu in Nemuro City, Hokkaido Pref.
納沙布岬は、日本の本土最東端にあたります。


==2019.7.7 北海道根室市 根室半島チャシ跡群 (ねむろはんとうチャシあとぐん) ==
Ruined Ainu's Chashis in Nemuro City, Hokkaido Pref.
根室半島チャシ跡群は、北海道根室市にある24か所のチャシ跡の総称で、国の史跡に指定されています。また、日本100名城の一つに選ばれています。今回は「ヲンネモトチャシ跡」と 「ノッカマフ チャシ跡」の二か所を訪れました。
「チャシ」 は、アイヌの人々の 「聖域」、「会談場」、「砦」 として用いられたと考えられています。



<2019年7月8日>
04route

==2019.7.8 北海道別海町 野付半島トドワラ (のつけはんとうトドワラ) ==
Todowara in Notsuke Peninsula, Betsukai Town, Hokkaido Pref.
「トドワラ」 とは、立ち枯れたトドマツ林の跡です。野付半島のトドワラは 「地の果て」 を感じさせる場所として近年有名になって来た様です。前回二回の訪問時は、ネイチャーセンター脇を通り過ぎただけでしたが、車が二台位しか停まっていなくて寂しく、荒涼感がありました。今回は多数の車が来ているほか、観光バスが5台も停まっているのには驚きました。


==2019.7.8 北海道羅臼町 クジラ・イルカ・バードウオッチング クルーズ ==
Whale, Dolphin & Bird Watching Cruise in Rausu Town, Hokkaido Pref.
羅臼港から出発する「鯨ウォッチング」に参加しました。



<2019年7月9日>
05route

==2019.7.9 北海道清里町 神の子池 (かみのこいけ) ==
Kaminoko Pond in Kiyosato Town, Hokkaido Pref.
神の子池の水源は、摩周湖の外輪山への降水が伏流水となって湧き出しています。


==2019.7.9 北海道清里町/中標津町 裏摩周展望台 (うらましゅうてんぼうだい) ==
Ura-Mashu Observation Deck in Kiyosato Town/Nakashibetsu Town, Hokkaido Pref.
裏摩周展望台は、三か所ある「摩周湖」用の展望台の一つです。


==2019.7.9 北海道弟子屈町 摩周第三展望台 (ましゅうだいさんてんぼうだい) ==
 Mashu No.3 Observation Deck in Teshikaga Town, Hokkaido Pref.
摩周第三展望台は、三か所ある「摩周湖」用の展望台の一つです。


==2019.7.9 北海道美幌町 美幌峠展望台 (びほろとうげてんぼうだい) ==
 Bihoro-Toge Observation Deck in Bihoro Town, Hokkaido Pref.
美幌峠は、眼下に日本国内最大の火山湖(カルデラ湖)である屈斜路湖のパノラマが広がっているほか、阿寒の山々が一望できる景勝地です。



<2019年7月10日>
06route

==2019.7.10 北海道礼文町 礼文島 (れぶんとう) ==
Rebun Island in Rebun Town, Hokkaido Pref.
前回の北海道旅行では「利尻島」を訪れましたが、今回は「礼文島」を訪れました。



<2019年7月11日>
07route

==2019.7.11 北海道北竜町 ひまわりの里 (ひまわりのさと) ==
Sunflower Park in Hokuryu Town, Hokkaido Pref.
北竜町の「ひまわりの里」は、150万本が植えられた国内有数のひまわり畑です。訪問は十日ほど早すぎた様です。


==2019.7.11 北海道札幌市 北海道開拓の村 (ほっかいどうかいたくのむら) ==
"Historical Village of Hokkaido" in Sapporo City, Hokkaido Pref.
「北海道開拓の村」 は、北海道開拓時代の52棟の歴史的建造物が移築または再現されている 野外博物館 です。


==2019.7.11 北海道札幌市 彌彦神社 (やひこじんじゃ) ==
 Yahiko Shrine in Sapporo City, Hokkaido Pref.
「彌彦神社」 は 越後一宮の彌彦神社を本社とし、新潟県からの移住者に依り明治末に建立されました。


==2019.7.11 北海道札幌市 北海道神宮 (ほっかいどうじんぐう) ==
Hokkaido-Gingu Shrine in Sapporo City, Hokkaido Pref.
「北海道神宮」 は、旧官幣大社であり、蝦夷国新一宮です。1964年までは 「札幌神社」 を名乗っていました。


==2019.7.11 北海道京極町 ふきだし湧水 (ふきだしゆうすい) ==
Mineral Water Spring in Kyogoku Town, Hokkaido Pref.
「ふきだし湧水」は、羊蹄山の伏流水が湧き出している泉です。湧き出し量は 一日当り約8万トンもあります。



<2019年7月12日>
08route

==2019.7.12 北海道余市町 旧下ヨイチ運上家 (きゅうしもヨイチうんじょうや) ==
Historical Trade Office in Yoichi Town, Hokkaido Pref.
「旧下ヨイチ運上家」 は、国指定史跡で、重要文化財です。
松前藩はアイヌとの交易独占権を家臣へ知行として与え(商場知行制)、この交易場を商場などと称したが、その後、商人が商場所経営を請け負うようになり、場所請負制が成立しました。この商場所に設置された出張所を運上屋といいます。


==2019.7.12 北海道余市町 ニッカウヰスキー余市蒸留所 (よいちじょうりゅうしょ) ==
Yoichi Distillery of Nikka Whisky in Yoichi Town, Hokkaido Pref.
「余市蒸留所」 は、ニッカウヰスキーの創業地であり、竹鶴政孝が1934年に建設しました。





<2016年7月19日>
「道の駅なとわ・えさん」- 函館市 - 大沼国定公園 - 八雲町 噴火湾パノラマパーク - 伊達市 - 支笏湖 - 恵庭市 - 新篠津村「道の駅しんしのつ」
Route_July19
第三の目標である「五稜郭」は見る事が出来ました。
天気予報を見ると、網走付近に晴れ間が見えるのは矢張り二日後の21日になっています。21日に第二の目標である「知床」見学ができる様に、そちらに向かうことにします。
泊は入浴が出来る「道の駅しんしのつ」にしました。

==噴火湾パノラマパーク==
 


<2016年7月20日>
「道の駅しんしのつ」- 夕張市 - 日勝峠 - 帯広市 - 足寄町 - 弟子屈町 - 標津町 - 斜里町 - ウトロ「道の駅うとろ・シリエトク」
Route_July20

==幸福の黄色いハンカチ思い出広場==
夕張市を走っていたら「幸福の黄色いハンカチ思い出広場」という看板が道に出ていたので「ああ、ここなのか!」と狭い道を迷いながら行ってきました。駐車場に着くと、下の方に入場料を取る建物が見えましたが、時間が早い為か人の気配はありません。「金を取るほど凄い所なのか?」と早々に撤退しました。
ここの直前に「石炭博物館」と言うものがあり行って見たのですが、時間が早すぎ開いていませんでした。こちらは是非見たかったのですがね。

==日勝峠==
日勝峠に差し掛かると「一合目」「二合目」「三合目」などと表示が道路にあります。「うわ~、とんな凄い峠道なんだろ」と箱根峠をイメージしたら、とんでもなく緩やかな峠道でした。高速道路の峠道の感じですね。
こんなに緩やかな峠道でも「ブレーキ故障時緊急避難所」が道路脇に設けられていました。箱根峠の「緊急避難所」は見上げる様な勾配の坂になっていますが、こちらのものは殆ど平らに出来ています。峠道の勾配の程度に依る発生エネルギーの差を表しているのでしょうか? まあ、何の為に設けられたのか分かりません。予算消化ですかね?
<日勝峠の緊急避難所>  
日勝峠
<箱根峠の緊急避難所>
箱根峠

==標津町 国道244号 (野付国道)==
兎に角、真っすぐです。対向車も居ません。
遅くなったのでぶっ飛ばしています。
 


<2016年7月21日>
「道の駅うとろ・シリエトク」- カムイワッカ湯の滝 - ウトロ港 - 知床観光船 知床岬航路 - ウトロ港 - 知床五湖フィールドハウス - 知床五湖ガイドツアー大ループ - ウトロ - 斜里町 - 網走市「道の駅流氷街道網走」
Route_July21

==カムイワッカ湯の滝==
朝8時に港へ行き乗船券を入手したので、乗船予定の9時半までの一時間半の時間を利用して「カムイワッカ湯の滝」まで行ってきました。かなり距離があるので無理かな、と思ったのですが、未舗装の峠道を 50キロから60キロでぶっ飛ばして何とか間に合いました。


==知床観光船 知床岬航路==
天気予報では晴れ間が見えるはずだったのですが、曇りですね。でも過去一週間より格段に景色が見えるとの事です。
船の人が双眼鏡で見ていて、ヒグマが見えると案内してくれます。行きに一頭、帰りに一頭、私には見る事が出来ました。双眼鏡は必須ですね。船にレンタル双眼鏡もあります。私は常時車に積んであるスタビライザー付の双眼鏡を使いました。やっぱり知床観光船は野生のヒグマが見えるかどうかで違いがでます。


==知床五湖ガイドツアー==
ガイダンスを受講してから出発します。ガイドは常時無線で本部からの情報を聞いて安全確保していますし、「熊除けスプレー」も持っているとの事です。時々、湖の対岸にヒグマがいるのを見る事ができるとの事ですが、今回は見る事が出来ませんでした。そんなことなら、双眼鏡を持参して来るんでした。
山が見えれば最高なんでしょうが、雲で下半分位しか見えませんでした。
 
さて、目標三つ全て達成したので、帰路につきます。小樽に向かいます。


<2016年7月22日>
「道の駅流氷街道網走」- 津別町 - 釧路市阿寒町 - 本別町 - 帯広市 - 狩勝峠 - 富良野市 - 芦別市 - 滝川市 - 歌志内市「道の駅うたしないチロルの湯」
Route_July22


<2016年7月23日>
「道の駅うたしないチロルの湯」- 滝川市 - 深川市 - 留萌市 - 石狩市柏木 - 新十津川町 - 月形町 - 石狩市 - 余市町 - 小樽市「色内埠頭公園」
Route_July23


<2016年7月24日>
「色内埠頭公園」- 小樽市内ドライブ - フェリー埠頭
Route_July24
 フェリーに乗船して新潟港に向かいます。

==道路勾配 22% の坂==
フェリー乗り込みまでの余った時間に小樽市内をドライブしました。北の方に「手宮公園」と言うのがあったので行って見ました。ここへ行く上り坂が凄い。人生最大の急勾配だと思います。記念に、帰り道の下り坂をムービーに撮りました。でも、下り側だと凄さが分かり難いかも ・・


<おわり>
 

2016年7月12日に自宅を発ち、7月25日に帰着という日程で北海道に旅行に行って来ました。
昨年(2015年)7月にも北海道には旅行しているのですが、その時には訪れていない所を主体に訪れました。
総走行距離は 4,316km, 要したガソリン量は 174.5リットル, 燃費は 24.7km/L でした。
高速道路は使わず、いわゆる下道を走るのが基本です。宿泊は全て車中泊としました。

先ず、全行程のログ(北海道内のみ)です。
<2016年7月13日 - 7月24日>
All Route

==フェリー「ライラック」への乗船と下船の様子==


<2016年7月13日>
小樽港 - 浦臼町 - 北竜町 - 名寄市 - 稚内市「道の駅 わっかない」
Route_July13
札幌の「北海道博物館」に行く予定だったのですが、7時には到着してしまう事に気付き、開館までの時間が無駄になるので、時間に縛られない自然の景色を求めて「北竜町のひまわり」を見に行きました。しかし、ひまわり?? 何処にもありませんでした。季節が違うのかな?
続いて、「大雪山旭岳のロープウェイ」に行こうとしましたが、どんよりとした曇り空で、上に上がっても何も見えない事に気づき、これも取りやめにしました。
結局、明日は利尻島に行く事に決め、今日は移動日として稚内まで行く事にしました。

==北越殖民社農場開基百年記念碑==
道の駅つるぬまに寄りましたら、看板に「北越殖民社農場開基百年記念碑」の記載がありましたので、早速見学に行ってきました。この看板の地図らしきものから場所を特定するのはかなり困難で、発見できたのは幸運と言えるでしょう。
道の駅看板

=記念碑=
記念碑

=説明文=
説明文

=動画 記念碑と周りの様子=


==北海道の道路 (No.1)==
朱鞠内湖(しゅまりないこ)近くの道道688号線です。
広葉樹の林の中を通っている北海道らしい道です。すれ違う車もありません。



<2016年7月14日>
「道の駅 わっかない」- 利尻島一周観光バス - 「道の駅 さるふつ公園」
Route_July14
利尻島に一日を充て、日を改めて礼文島と奥尻島にも行く予定にしていたのですが、利尻島観光の結果から他の二島は取り止めにしました。利尻島には「利尻富士」という「自分に取って見るべきもの」があるが、他の島には「自分に取って見るべきもの」は無いと感じました。
 「道の駅さるふつ公園」には昨年と同様に今年もキャンピングカーが多量に居ました。何故なんでしょうか?
==利尻島==
 


<2016年7月15日>
「道の駅さるふつ公園」- 紋別市 - サロマ湖 - 能取湖(のとろこ) - 網走 - 斜里町ウトロ - 網走 - 大空町「道の駅メルヘンの丘めまんべつ」
Route_July15
明日は知床観光とし、今日は斜里町ウトロまでの移動日としました。
途中、サンゴ草群生地としてビューポイントとして知られているサロマ湖湖畔と能取湖湖畔の二か所に寄りましたが、サンゴ草らしきものは見えませんでした。これも季節的要因でしょうか?
ウトロでは、知床五湖フィールドハウスへ行きガイドツアーの時間などを調べ、ウトロ港では観光船の時間などを調べました。その結果として、一日で両方を行うなら、10:00出港の知床岬まで行く「知床岬航路」に乗り、13:45帰港後に知床五湖フィールドハウスへ行き、15:00頃のガイドツアーに参加すれば18:00頃解散となるスケジュールが可能と言う事でした。
夕食の都合で網走に戻り、泊は「道の駅メルヘンの丘めまんべつ」としました。明日のウトロ港10:00出港には余裕で間に合います。

 
<2016年7月16日>
「道の駅メルヘンの丘めまんべつ」- 北見市 - 陸別町 - 本別町 - 帯広市 - 大樹町 - 天馬街道 - 浦河町 - 新ひだか町 - むかわ町「道の駅むかわ四季の館」
Route_July16
ところが、ところが、朝起きてみると天気が全く駄目です。この曇り空では山どころか、海岸も船から見えないでしょう。天候の回復を待つべく天気予報を見ると、晴れ間が見えるのは一週間後の予報です。こりゃ駄目だと知床の再訪問は一週間後を予定して、それまでは第三の目標である「函館の五稜郭」を目指して旅をすることにしました。
今日は、先回の北海道旅行で訪れなかった「帯広」と「十勝平野」を訪れることにしました。その後で通った「天馬街道」も広葉樹の森に囲まれ、北海道らしい、なだらかな峠道でお勧めの道路です。
久しぶりに入浴もすべく、泊は「道の駅むかわ四季の館」にしました。

==大空町「ビューポイント 女満別「メルヘンの丘」」からの眺め==
 

==北海道の道路 (No.2)==
 
国道236号 更別村付近
十勝平野では広葉樹より針葉樹 (トドマツ?) に依る防風林的なものが目立ちますね。


<2016年7月17日>
「道の駅むかわ四季の館」-札幌市北海道博物館 - 江別市郷土資料館 - 江別市野幌神社 - 長沼町「道の駅マオイの丘公園」- 小樽市 - 赤井川村「道の駅あかいがわ」
Route_July17

今日は初日に予定していた「北海道博物館」と「江別市郷土資料館」を訪れました。
泊は、赤井川村の「道の駅あかいがわ」としました。小樽から赤井川村までの道は、北海道には珍しい本格的な峠道で、楽しいドライブでした。

==北海道博物館==
う~ん、こんなものかと ・・・ 期待が大きすぎたのかも ・・・
「開拓」の大きな壁画が気に入りましたが、なぜかインターネットを検索しても出てきません。フシギ??
北海道博物館

==江別市郷土資料館==
北越殖民社関係の展示を期待していたのですが、余り量は有りませんでした。
でも、わざわざ案内して頂いた女性の学芸員には感謝しています。
江別資料館-01

江別資料館-02

==江別市野幌神社==
郷土資料館の学芸員に紹介して頂いたので訪れました。
歴史的経過を知らなければ、ま~ 田舎の普通の神社です。
野幌神社-01

野幌神社-02
弥彦神社の神様も居られますね。

野幌神社-03
 
==毛無山展望所からの景色==
小樽市から赤井川村への峠道にある毛無山展望所から見た小樽市の景色です。
 


<2016年7月18日>
「道の駅あかいがわ」- 倶知安町 - ニセコ町 - 豊浦町 - 長万部町 - せたな町 - 乙部町 - 函館市 - 函館市「道の駅なとわ・えさん」
Route_July18
今日は、先回は駐車場が分からずパスしてしまった函館の「五稜郭」を見るのが主目的です。今回はネットの情報を調べて万全の準備がしてあります。
函館までは、極力前回の道とは違う道を通るルートとしました。

==倶知安町から見た羊蹄山==
 

==五稜郭タワーから見た五稜郭==
 


<後半> に続く

 

「江別市江別太」
北海道に来たら是非訪れたい場所の一番が「江別市江別太」でした。
「江別太」は漢字は知っていたのですが、現地の道路標識で EBETSUBUTO と発音する事を確認出来ました。しかし 「ブト」 とは何ともエレガントで無い発音だなと思ったのですが、最近、アイヌ語が基になっている事を知りました。更には、北海道には「太」の付いた地名が多くある事も ・・

ここは新潟県長岡を基盤とする「北越殖民社」が明治19年 (1886) から「越後村」として越後の農民を入植させ開拓を行った場所です。
北越殖民社の初代社長である大橋一蔵は開拓事業に参加する以前に、私学の開設に参加し、そこの校長を務めていました。その私学は明治29年に閉校になりますが校舎は残り、小学校の校舎として使用されていました。
私は、その小学校を卒業したのです。その校舎で学んだ関係から大橋一蔵には因縁を感じ、ここ江別太を訪れたという訳です。

<千古園>
大橋一蔵の後を継いで北越殖民社の二代目社長となった関矢孫左衛門の屋敷跡の公園
01_千古園
02_千古園看板

<農村公園>
向こうの葦原の先が沼になっていて「越後沼」というらしい。
越後の開拓民の名残を求めてやって来ました。
03_農村公園

<江別太の風景>
殖民社に依る開拓地と思われる付近で写真を撮りました。
当時は原生林を切り開きながらの開拓で、大変な苦労があったのでしょうが、いま見れば、のどかに広がる農地です。
04_江別太

「苫前町三毛別」
江別太の後は「苫前町三毛別」に向かいました。
7月17日に苫前町の道の駅に寄ったら、町の PRパンフレットに、ここが有名な大正4年 (1915) の「三毛別羆事件」の発生場所である事が書いてありました。私の北海道に関する数少ない知識の一つであったので、早速山側に車を走らせ場所を探したのですが、標識も無く、ナビにも出てこず、この時は諦めました。
で、再チャレンジと言う訳です。
一目散に車を走らせ、午後四時半頃に現地に到着しました。
私の後からもう一台車が来て、この時はこの二台だけでした。
<事件の説明看板>
05_ヒグマ看板

<再現された開拓民家と襲う羆>
06_ヒグマと家

<民家の内側>
07_家の内部
「え、え~?!」って感じですよね
丸太を荒縄で縛って柱にし、葦みたいな草を編んだものを壁として使っている。「嘘だろう! こんなもので北海道の冬を乗り切れる筈が無い!!」
と私も思いましたですよ、「三内丸山遺跡の縄文人の住居の方がヌクヌク、暖かじゃね~か!」

でも、嘘じゃ無い気がしてきました。
前述の 北越殖民社の記録を見ると、殖民社から開拓民に支給された住居は、「初期段階は 3間  x 5間の杣家、その後は笹小屋」とあります。杣家とはどんなものか分かりませんが、「笹小屋」はGoogleの画像検索で出てきます。多分、笹小屋の方が杣家より新しいので、より良い条件のものと考えられますが、その笹小屋は この住居と変わりはありません。
see 資料
最近でも、山菜取りを生業とする人たちは、山中での一、二か月の生活は この様な仮小屋で過ごしていました。そのままの形態が、厳寒の北海道に持ち込まれたと考えざるを得ません。

更に
「え、え~?!」って感じるのは、ここの場所の立地です。
山と山の間の川筋は、下流側では山と山の間に そこそこ平坦な場所があり、そこが農地にされています。
ここは、もはや山と山が近接し、平地が無い渓谷に近い感じの場所です。
何故こんな場所に入植したのか??
北越殖民社の一戸当たり開拓面積は 5町歩、ここは下流側の住民 10戸強を合わせても全部で 2町歩あるのでしょうか?
1986年には ふんだんにあった開拓用の土地が、1915年には この様な土地しか残っていない状態だったのでしょうか?
北海道の広大な風景を見慣れた目には、最大の疑問に映ります。
<三毛別の立地>
08_ヒグマ現地

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