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旧下田村(シタダムラ)吉が平(ヨシガヒラ)へドライブに行ってきました。
越後と会津の只見を結ぶ峠道、八十里越の越後側の起点だった所です。八十里越は司馬遼太郎の「峠」のタイトルの基になった峠です。戊辰戦争で長岡藩の河井継之助は、負傷して、この峠を敗走し、只見側で亡くなっています。
吉が平の集落は、かって十数戸の住宅と小学校の分校があったのですが、守門川の氾濫に依る水害に依り昭和45年に集団離村し、以降無人の場所となっています。

先ずドライブルートです。
新潟県道183号線の、水ノ木峠から下ってくる210号線との交点にゲートがあります。このゲートを起点に吉が平までの往復のドライブです。
ルート

ドライブ記録
再生速度は 2.5倍としてあります。



長岡市内の山側の旧杤尾市と旧山古志村の山道をドライブしてきました。
主要なルートを三つに分けて動画に記録しました。
ルート地図

1. 林道真木半蔵線
長岡市栖吉(スヨシ)から (旧栃尾市)半蔵金(ハンゾウガネ)まで
車の走行速度は大体 30km/h なので、4倍速再生として体感 120km/h にしました。


2. 新潟県道24号線
長岡市(旧栃尾市)半蔵金から(旧山古志村)種苧原(タナシハラ)まで
車の走行速度は大体 40km/h なので、3倍速再生として体感 120km/h にしました。


3. 新潟県道24号から23号線
種苧原から虫亀(ムシガメ)経由 蓬平(ヨモギヒラ)温泉分岐まで
車の走行速度は大体 50-60km/h なので、2.2倍速再生として体感 110-130km/h にしました。


2015年10月3日に「保久礼」(ほっきゅれ) にドライブに行きました。
魚沼市二分までは時々ドライブで行ったことはあるのですが、その先の山の中に 保久礼 と地図表示された場所がある事には気が付いていたのです。調べてみると、守門岳の登山ルートとして知られている事が分かりました。
しかし、何で「ほっきゅれ」なんて変な発音なのでしょうか?越後弁的では無いし、アイヌ語とも違う感じだし?
ともかく色々興味をそそられる場所なので行くことにしました。
長岡市の道院高原(旧栃尾市) を出発点として、保久礼まで行き、魚沼市二分に抜けるコースです。

<GPSログ>
00_1_GPSログ
<高度プロフィル>
00_2_高度プロフィル

1.
出発点の道院高原の駐車場です。向こう側に守門岳が見えます。
01_道院高原
出発してすぐ、道路を横断している蛇に会いました。
縞蛇だと思いますが、写真を撮りながら「やけに緑っぽいな」と思ったのですが、写真で見ても緑っぽいですね!
ヘビにも保護色の機能があるのでしょうか?
02_ヘビ
2.
道院高原側から二分栃尾線への接続点
03_分岐点
途中の道は、ひび割れたコンクリート舗装で、1車線の道です。
04_途中
3.
二分栃尾線から保久礼への分岐点 (長峰)
05_分岐点2
保久礼への枝道も、ひび割れたコンクリート舗装で、1車線の道です。
06_保久礼へ
4.
目的地の保久礼駐車場に到着しました。
登山者のものと思われる車が 10台ほど停まっていました。
07_保久礼駐車場
3.
保久礼側から二分栃尾線への合流点を見る。
08_分岐点3
二分側の道路はアスファルト舗装で新しい感じです。
09_二分側
5.
二分栃尾線の二分側入り口を振り返る。
右側の道が二分栃尾線
10_二分側入り口
6.
二分の集落を通る。
11_二分集落

「江別市江別太」
北海道に来たら是非訪れたい場所の一番が「江別市江別太」でした。
「江別太」は漢字は知っていたのですが、現地の道路標識で EBETSUBUTO と発音する事を確認出来ました。しかし 「ブト」 とは何ともエレガントで無い発音だなと思ったのですが、最近、アイヌ語が基になっている事を知りました。更には、北海道には「太」の付いた地名が多くある事も ・・

ここは新潟県長岡を基盤とする「北越殖民社」が明治19年 (1886) から「越後村」として越後の農民を入植させ開拓を行った場所です。
北越殖民社の初代社長である大橋一蔵は開拓事業に参加する以前に、私学の開設に参加し、そこの校長を務めていました。その私学は明治29年に閉校になりますが校舎は残り、小学校の校舎として使用されていました。
私は、その小学校を卒業したのです。その校舎で学んだ関係から大橋一蔵には因縁を感じ、ここ江別太を訪れたという訳です。

<千古園>
大橋一蔵の後を継いで北越殖民社の二代目社長となった関矢孫左衛門の屋敷跡の公園
01_千古園
02_千古園看板

<農村公園>
向こうの葦原の先が沼になっていて「越後沼」というらしい。
越後の開拓民の名残を求めてやって来ました。
03_農村公園

<江別太の風景>
殖民社に依る開拓地と思われる付近で写真を撮りました。
当時は原生林を切り開きながらの開拓で、大変な苦労があったのでしょうが、いま見れば、のどかに広がる農地です。
04_江別太

「苫前町三毛別」
江別太の後は「苫前町三毛別」に向かいました。
7月17日に苫前町の道の駅に寄ったら、町の PRパンフレットに、ここが有名な大正4年 (1915) の「三毛別羆事件」の発生場所である事が書いてありました。私の北海道に関する数少ない知識の一つであったので、早速山側に車を走らせ場所を探したのですが、標識も無く、ナビにも出てこず、この時は諦めました。
で、再チャレンジと言う訳です。
一目散に車を走らせ、午後四時半頃に現地に到着しました。
私の後からもう一台車が来て、この時はこの二台だけでした。
<事件の説明看板>
05_ヒグマ看板

<再現された開拓民家と襲う羆>
06_ヒグマと家

<民家の内側>
07_家の内部
「え、え~?!」って感じですよね
丸太を荒縄で縛って柱にし、葦みたいな草を編んだものを壁として使っている。「嘘だろう! こんなもので北海道の冬を乗り切れる筈が無い!!」
と私も思いましたですよ、「三内丸山遺跡の縄文人の住居の方がヌクヌク、暖かじゃね~か!」

でも、嘘じゃ無い気がしてきました。
前述の 北越殖民社の記録を見ると、殖民社から開拓民に支給された住居は、「初期段階は 3間  x 5間の杣家、その後は笹小屋」とあります。杣家とはどんなものか分かりませんが、「笹小屋」はGoogleの画像検索で出てきます。多分、笹小屋の方が杣家より新しいので、より良い条件のものと考えられますが、その笹小屋は この住居と変わりはありません。
see 資料
最近でも、山菜取りを生業とする人たちは、山中での一、二か月の生活は この様な仮小屋で過ごしていました。そのままの形態が、厳寒の北海道に持ち込まれたと考えざるを得ません。

更に
「え、え~?!」って感じるのは、ここの場所の立地です。
山と山の間の川筋は、下流側では山と山の間に そこそこ平坦な場所があり、そこが農地にされています。
ここは、もはや山と山が近接し、平地が無い渓谷に近い感じの場所です。
何故こんな場所に入植したのか??
北越殖民社の一戸当たり開拓面積は 5町歩、ここは下流側の住民 10戸強を合わせても全部で 2町歩あるのでしょうか?
1986年には ふんだんにあった開拓用の土地が、1915年には この様な土地しか残っていない状態だったのでしょうか?
北海道の広大な風景を見慣れた目には、最大の疑問に映ります。
<三毛別の立地>
08_ヒグマ現地

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